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| 宇治・第五日目 | |
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平等院の鳳凰堂 |
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平等院 |
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(左)藤原氏のシンボル藤。平等院は藤などの花で有名だが、晩秋では葉さえ残っていなかった。風に吹かれて舞い落ちる枯葉が風情がある。(右)鳳凰堂を別の角度からもう一度写真に。 |
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琵琶湖線で名古屋まで 琵琶湖線は京都を出るとまずトンネルを抜ける。再び京都が山に、それもかなり険しい山に囲まれた土地であると実感。この山を越えるのは大変だっただろう。今ならトンネルを通ればすぐに大津にでる。ひと時とはいえ、京が置かれた場所でもあり、琵琶湖水運の要衝でもある。この街から琵琶湖の西岸を行く湖西線に乗れば、比叡山やその門前町の坂本へと出る。司馬遼太郎氏の『街道をゆく』の記念すべき第一回目が『湖西のみち』だったのを思い出した。その本を片手にもう一度来て見たいと思う。 その『湖西のみち』には、さかんに『近江』という国がでてくる。僕も名前ぐらいは何度も聞いたことがある。(京都に)近いところにある海ということで、琵琶湖のことを指す。琵琶湖周辺を指して、近江の国という・・・ということを始めて知った。いや、聞いたことがあったかもしれない。実際に行かないと実感として理解できないことは多い。僕にとっては土地の名前もそうである。そして今回初めて近江をゆっくりと電車で通った。近江、特に琵琶湖の東側は広けた土地が広がっていた。日本にも広くて平らな土地が、まだまだたくさんある。 しばらくすると、安土という町を通った。あの織田信長が作った町である。日本統一を目指した男が、ここに日本の首都をおこうとした。京都に対抗する意味をこめて、琵琶湖をはさんで平安京の反対側に『安土』となずけた。(『平安楽土』で『平安京』から『安土』である、と逆説の日本史では説明している。)この町のどこかに、ヨーロッパでも紹介された安土城が立てられていたはず。 米原から電車は東へと進む。このまま琵琶湖に沿ってゆくと長浜へ出る。尾張を支配する織田信長が、早くから上洛のことを考えていたのだろう。尾張から京都にはこの地を通ってゆくしかない。そこで、当時この地を支配していた浅井氏?に自分の妹?を嫁がせた。上京の際にはよろしく、ということである。ところが、その浅井氏が信長を裏切ったのだ。そんな歴史を思い出してしまった。この土地は、また秀吉(そのときは羽柴性だった?)が始めて治めた土地。彼が最初に行ったことは、土地名を変えることだった。新しい名前は長浜。地図を見ると、浅井、長浜の両方とも町の名として残っている。 このあたりから雲が低く垂れ込め、雨がぱらぱらと降り始めた。関が原へ近づいてきたのだろう。西と東の中間に位置する関が原は古来から戦場になった所だが、交通の要所であり、日本海の湿った寒気が通る雨・雪の多い場所でもある。ここから東が、東国とされる。そこそこ広い盆地だったが、山が迫っていて圧迫感がある場所だった。 電車は岐阜を通って名古屋へ向かう。日は暮れて、暗くなっていた。名古屋から新幹線。金曜の夜はビジネス客で新幹線が満員状態だった。 |
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