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宇治・第五日目

平等院の鳳凰堂
第五日目
十一月三十日
最後の日は、宇治を見て回ることにした。京都から電車で20分ほどのところにある。日本一大きな湖、琵琶湖から流れ出る唯一の川が勢田川で、その川が途中で宇治川と名前を変える。琵琶湖を囲む山並みから出てきたところが宇治になる。宇治橋から東を見ると、山並みが壁のように立ちはだかっていて、そこから宇治川が流れ出ている。このような険しい山をどうやって切り裂いたのか不思議な気がする。

平等院
かつて栄華を誇った藤原氏が宇治にあった別荘を寺に改めたものだそうだ。その姿が鳳凰に似ているところからつけられた鳳凰堂は、10円玉のモデルとして誰でも知っている。僕も皆も、鳳凰堂の前で10円玉と較べていた。確かに優美な姿をしているが、京都と違いどこかおおらかで、のびのびした雰囲気がある。ひとつだけ、平等院にはこの鳳凰堂以外に見るものがあまりない。昔はずいぶんと広い敷地を誇っていたが、今残っているのは鳳凰堂と少しの建物だけ。その代わりに境内にきれいな展示館を設け、歴史などの説明をしていた。展示品自体より建物自体が良く出来ていて、京都駅といい京都人は建築を良く知ってると思う。


(左)藤原氏のシンボル藤。平等院は藤などの花で有名だが、晩秋では葉さえ残っていなかった。風に吹かれて舞い落ちる枯葉が風情がある。(右)鳳凰堂を別の角度からもう一度写真に。

琵琶湖線の電車から夕焼けを撮る。

琵琶湖線で名古屋まで
京都駅に戻っても、まだ3時であった。今、新幹線に乗ると5時には東京についてしまう。そこで、琵琶湖線に乗って名古屋までのんびり行くことにした。琵琶湖の東側を通る鉄道は、歴史の舞台となった町を次々と通り、関西が歴史に彩られていることを実感できた。これは関東にはない経験だ。

琵琶湖線は京都を出るとまずトンネルを抜ける。再び京都が山に、それもかなり険しい山に囲まれた土地であると実感。この山を越えるのは大変だっただろう。今ならトンネルを通ればすぐに大津にでる。ひと時とはいえ、京が置かれた場所でもあり、琵琶湖水運の要衝でもある。この街から琵琶湖の西岸を行く湖西線に乗れば、比叡山やその門前町の坂本へと出る。司馬遼太郎氏の『街道をゆく』の記念すべき第一回目が『湖西のみち』だったのを思い出した。その本を片手にもう一度来て見たいと思う。

その『湖西のみち』には、さかんに『近江』という国がでてくる。僕も名前ぐらいは何度も聞いたことがある。(京都に)近いところにある海ということで、琵琶湖のことを指す。琵琶湖周辺を指して、近江の国という・・・ということを始めて知った。いや、聞いたことがあったかもしれない。実際に行かないと実感として理解できないことは多い。僕にとっては土地の名前もそうである。そして今回初めて近江をゆっくりと電車で通った。近江、特に琵琶湖の東側は広けた土地が広がっていた。日本にも広くて平らな土地が、まだまだたくさんある。

しばらくすると、安土という町を通った。あの織田信長が作った町である。日本統一を目指した男が、ここに日本の首都をおこうとした。京都に対抗する意味をこめて、琵琶湖をはさんで平安京の反対側に『安土』となずけた。(『平安楽土』で『平安京』から『安土』である、と逆説の日本史では説明している。)この町のどこかに、ヨーロッパでも紹介された安土城が立てられていたはず。

米原から電車は東へと進む。このまま琵琶湖に沿ってゆくと長浜へ出る。尾張を支配する織田信長が、早くから上洛のことを考えていたのだろう。尾張から京都にはこの地を通ってゆくしかない。そこで、当時この地を支配していた浅井氏?に自分の妹?を嫁がせた。上京の際にはよろしく、ということである。ところが、その浅井氏が信長を裏切ったのだ。そんな歴史を思い出してしまった。この土地は、また秀吉(そのときは羽柴性だった?)が始めて治めた土地。彼が最初に行ったことは、土地名を変えることだった。新しい名前は長浜。地図を見ると、浅井、長浜の両方とも町の名として残っている。

このあたりから雲が低く垂れ込め、雨がぱらぱらと降り始めた。関が原へ近づいてきたのだろう。西と東の中間に位置する関が原は古来から戦場になった所だが、交通の要所であり、日本海の湿った寒気が通る雨・雪の多い場所でもある。ここから東が、東国とされる。そこそこ広い盆地だったが、山が迫っていて圧迫感がある場所だった。

電車は岐阜を通って名古屋へ向かう。日は暮れて、暗くなっていた。名古屋から新幹線。金曜の夜はビジネス客で新幹線が満員状態だった。

 

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