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日本史ハイライト
2000年を超える日本史を簡単にまとめてみました。日本史をまったく知らない人でも、面白く興味がもてるように書いたつもりなのですが・・・ハイライトだから、いいことしか書いてありません。でも、こういうのがあると、日本史に取っ付きやすくて便利かと思って作ってみました。年表も作りたいし、もっと図や写真も張り付けたい。
仁徳天皇陵の全景が見られる場所はなかったので、横にあった説明の看板を撮影。

始めの始まり・・・
日本にも古くから人は住んでいて、狩猟や簡単な農耕をしていた遺跡が見つかっている。そこに紀元前2世紀ごろ、稲作の技術を持っていた一団が大陸から渡ってきた。古くからいた人は縄文人、新しくきた人は弥生人と呼ばれていて、二者の間に戦争もおきたようだった。が、いずれ平和に共存しはじめ、協同で農地の開墾を行っていた場所もあった。そんな状態の日本から、4世紀から5世紀にかけて国の統一がなされ、一つの王朝が支配することとなった。王はどこから来たか?どうやって日本を統一したか?どんな統治だったのか?など、はっきりと分からないことばかりであるが、この王朝が現代の日本の天皇まで続いている。

  • 世界で最大規模の墳墓。そう、あのピラミッドより大きな古墳が日本にあった。もっとも、こちらは土を盛り上げて、大きな丘のようにしてあるだけなので、石を積み上げたピラミッドと比較することは出来ないが・・・それでも、最大のものは長さ480mを超え、周りは濠で囲まれている。しかも、200m以上のものとすれば日本各地に何十(いくつ?)も存在する。これだけの規模の墳墓を作る権力が日本にあったとは驚いてしまう。
  • この他にも縄文人や弥生人の残した遺跡が日本のあちらこちらで発掘されています。
  • が、なんと言っても、最近の一番の話題は遺跡の捏造事件と思う。古い地層から、矢じりなどを見つけ出し、日本の、いや世界の旧石器時代の常識を変えるような発見を次々としていた人がいた。彼が、2000年(だったっけ?)に、今までの遺跡の捏造を認めたのである。おかげで、日本史学会は大混乱。今は日本史学会の閉鎖性なども批判されて、今後は広い分野からの研究参加が望まれるようになった。

飛鳥・奈良時代 (550ごろ〜794)
中国大陸では隋・唐により国家統一が完成し、いよいよ朝鮮や日本にも圧力がかかり始めてきた。これに対応するため、王朝は中央集権の強化に乗り出した。701年、大宝律令が制定された。これをもって本格的な国家の形が完成したと考えられている。中国から学んだ『律令制』をもとに、法律を策定し、官僚組織をくみ上げ、そして日本で最初の首都を作り上げたのである。国名を『日本』、王朝を『天皇』とするのもこの時代からである。また、仏教も本格的に導入され、寺院が日本中に建設され始めた。日本での2番目の本格的首都、平城京は現在の奈良市に位置していて、その周りには今も、古い寺院が残っています。

  • 84年間、日本の首都だった平城京は今の奈良市のすぐそばにありました。今でも奈良と法隆寺の周りには10ぐらいの世界遺産に登録された建築物がある。ほんの一日ですが、奈良に泊まりました(晩秋の京都・奈良)。
  • 現存する世界最古の木造建築のある法隆寺。日本で最も有名な聖徳太子が建立したお寺。
  • 現存する世界最大の木造建築のある東大寺。中には高さ15mの巨大な金銅仏が収められています。こちらも製作当時は世界最大だったとか。当時の日本の技術を考えると、まさに国の全力をあげて作った寺院でしょう。
  • 律令制度とは?『律』はルールで、法律のこと。『令』は命令で、上意下達の官僚制度のこと。多分。現代的な行政制度に似ているといえば似ている。ただし、律令制の本質は『公地公民』、つまり全ての土地は国家が保有し、農民も国家に所有されるという考え。つまり、国は土地を貸してやるから、農民は耕して税を納めろということ。

平安時代 (794〜1192)
日本統一も完成し、首都は平安京(今の京都)へと移る。400年続いた平安京の始まりである。『平和』で『安らか』な時代、徐々に政治は腐敗していった。部下である藤原一族が次第に実権を握り、天皇の権威は骨抜きにされた。そんな一方、日本は大開墾時代を迎え、食糧生産技術の向上などとあいまって、土地の私有が始まり、公地公民の原理は社会と会わなくなってきた。ところが藤原氏などをはじめ、政治の中枢にいた貴族たちは実務を省みなかったので、社会は混乱に陥っていた。こういう状況を背景に武士と呼ばれる集団が力をつけ始める。そして平安京を中心にして、熟した文化が甘い香りを放ち始める。
  • 世界最初の長編小説、『源氏物語』。かなの発明により日本語が自由に書けるようになると共に、物語が発展してきた。光り輝くように美しい『光源氏』が奔放に恋に落ち、最後には政敵に打ち勝って最高権力を手に入れる話である。主人公の感情がつぶさに書かれていて、複雑なプロットとあいまって現代でも通用する内容であると言われている。(ちょっとソープオペラだが・・・)。ちなみに書いたのは、女性の紫式部。当時、権力の絶頂にあった藤原氏の妻の一人だそうである。主人公の『源氏』とは、その藤原氏に負けた一族のことで、よくこのような内容の本が作られたと思う。『源氏物語』が書かれた場所が今でも京都に残っています(晩秋の京都・廬山寺)。
  • 宇治の鳳凰堂。絶大な権力を握っていた藤原氏の別荘。後にお寺に変えて、今に残っています。
  • 嵯峨? 嵐山?京都の周りには、まさに寺院と神社が集中していて、見所は尽きない。

鎌倉時代 (1192〜1333)
何もしない公家に代わって、自分たちが政治を始める。武士たちはとうとう立ち上がって、自分たちで政治を始めた。まずは平家が武士として始めて、政治の中枢を握った。だが平家は公家化してしまい、失望した武士たちは源頼朝の旗の下に集まり平家との戦が始まった。この日本で最初の大戦乱、源平合戦に勝利した頼朝は、続いて天皇を相手に虚虚実実の政争を繰り広げ、とうとう1192年に鎌倉に幕府を打ち立てた。天皇を中心とした律令制度に変えて、封建制度と呼ばれる新たな制度が日本で発生したのである。これ以降、武士が日本史の主役として踊り出ることになった。
  • 鎌倉。東京から電車で1時間ほどで、三浦半島の根元にある小さな町に着く。今は、シーサイドリゾートとして若者が集まり、サーファーが闊歩する。が、この町で、日本独自の土地制度、封建制度が生まれた。以降の戦乱で多くの寺院は破壊されたが、今でも古い町並みが残り、多くの禅寺が再建されている。源頼朝の墓も今も鎌倉にあり、多くの人が参拝をしている。
  • 世界遺産にも登録されている、厳島神社。瀬戸内海の島に立てられたこの神社は、源頼朝と戦った平家の氏神である。『平家にあらずんば人にあらず』とまで豪語した平家は、5年後には滅ぼされてしまう。『奢ごれるものは久しからず』と歌い、無常観の基に書かれた『平家物語』。日本史上、最も美しい調べと言われ、日本中に散らばった盲目の琵琶法師たちが平家の鎮魂のために語り継いだ物語である。
  • 武士の血と汗と涙の結晶、封建制度。日本とヨーロッパでしか存在しない制度とも言われている。日本の特徴は『武士道』を元にした信頼関係による主従関係。専制君主はおかず、合議制を重視して、公正な裁きをあたえることにより幕府の権威を維持。

南北朝 (1333〜1399)
元寇を辛くも打ち破った鎌倉幕府。だが、あくまで撃退したにとどまり、勇敢に戦った武士たちは恩賞ももらえず不満は大きかった。これに、商工業の発展が追い討ちをかける。悪党と呼ばれる新たな市民が台頭し、金利貸し、商人、などにより力をつけ始めていた。借金をしてまで、自分の国と土地を守った武士は、金を返せず没落していったものも多かった。社会の動揺を敏感に感じ取った時の後醍醐天皇(だったっけ?)は、もう一度、天皇による中央集権国家樹立のために鎌倉追討の令を下した。これに対し、後醍醐とは別の天皇家の血統を立てて応戦する鎌倉幕府。南朝と北朝の二つの天皇家が並び立ち、50年にわたる戦乱の始まりだった。
  • 戦乱と破壊が続いたこの時代。余り誇れるものはないと思う。一つあるとすると、これ以降、天皇は『君臨すれども統治せず』を守っていることかも。天皇は政治の実権を握らない、天皇を含めて日本人全員が了解したと思います。
  • 後醍醐天皇に忠誠を近い、孤軍奮闘で戦った楠正成。敵にも尊敬されていたほど、あっぱれな人です。

室町時代 (1350ごろ〜1573)
北朝と南朝の2つの天皇が覇を競う南北朝の最中、足利尊氏は京の室町に幕府をひらいた。が、南北朝の戦乱を終わらせたのは、室町幕府第三代将軍、足利義満だった。義満将軍は強大な権力をもってはいたが、一般に室町幕府の力は日本全土には及ばず、『六分の一殿』などというあだ名をもらった将軍もいたとか。その一方、文化での貢献度は大きかった。『茶』を芸術の息にまで高め、『わびさび』の美を発見し、床の間、畳、などの日本建築の形が完成したのは室町時代であった。
  • 第三代将軍足利義満が立てた金閣。南北朝を終わらせ、天皇の地位まで狙った義満らしく、金で覆われた金閣は豪華で放胆。寺に入るとまばゆい金閣に目を奪われる。
  • 室町幕府も崩壊寸前の1467年、室町幕府の主要豪族が対立し、京都市内で乱戦を繰り広げ始めた。これを応仁の乱という。このため、京都はほぼ壊滅し、今ある京都の建築物は応仁の乱以降に再建されたものがほとんどだそうです。室町幕府は1573年に滅びますが、実質応仁の乱で幕府としての能力も権威もなかったことが証明されました。
  • 銀閣。その応仁の乱のとき将軍だったのが第八代将軍足利義政。政治が大嫌いで、悪妻に実権を握られていた。応仁の乱の間、ずっと御所にこもって毎日宴をひらいて現実逃避をしていたそうです。その義政が晩年の時に、丹精をこめて作り上げたのが銀閣。小さい権力を象徴するように小さな建物ですが、寂しさの中にも、落ち着きがあり、『わびさび』というものを端的に表している。実は、この銀閣が今の日本人の美意識を良くあらわしています。
  • 能。実は見たことがない。が、日本芸能の最高の芸術だそうです。

戦国時代 (1500ごろ〜1603)
室町幕府の力も失墜し、各地で豪族・大名が独立して覇を競い始めた。その間、いよいよ商工業が発展したが、室町幕府はほとんど空中分解の状態で、中央政府がいないため野放し状態。ありとあらゆるところに座と呼ばれるギルドが成立し、生産・流通をともに独占して、巨大な利益をむさぼっていた。そんな時、過去の因習にとらわれない合理主義を原則にして日本統一を図った男がいた。織田信長である。実力主義による人事、独占や無秩序な規制を認めない自由経済の導入、そして火縄銃を使った最新設備の整った常時軍の設立、などの革命的政策を実行して日本統一に驀進する。信長はその途中、裏切りにより京都の本能寺で殺される。が、信長の革命は、彼の部下だった豊臣秀吉につがれる。1590年、秀吉は、はれて天下を統一し、戦国の時代をひとまず終わらせた。
  • 信長。彼の合理主義による革命がなかったら、今の日本はなかった。そう思う人は多いと思う。僕もそう思う。そのぐらい彼は日本史で重要な人物である。
  • 戦国当時、世界の三分の一の銃が日本にあったらしい。その性能も高く、競技用の銃としてヨーロッパまで輸出されていていた。また、当時、鋼鉄製の大砲を作れたのが日本とトルコだけで、威力は世界でも高く知られていたそうです。まさに技術立国の源ここにあり、といった風で・・・
  • 当時、金と銅の生産は世界一で、銅に至っては世界の生産の三分の一を占めていたそうです。大量の銅銭が日本から輸出され、中国、東アジア、そしてヨーロッパにまで影響を与えたということです。このとき『黄金の国ジパング』が有名になったという話。今の資源小国・日本の姿からは想像もつきません。
  • 江戸城、大阪城、小田原城、姫路城、などの城。姫路城は世界遺産にも登録されています。実は姫路城が建設されたのは江戸時代。でも、まぁ、一応戦争のための建築物なのでここで挙げておきました。本当は、信長が作った安土城を挙げたいのですが、残念ながら今は跡しかありません。七層の天守閣を備え、この城の豪華さは遠くヨーロッパまで聞こえたということです。江戸城は天守閣が家事で燃えてしまいましたが、今では天皇の住まいになってます。

江戸時代 (1603〜1868)
戦国の世に信長、秀吉と続いたが、最後に笑ったのは徳川家康だった。秀吉の死後、求心力を失った豊臣家と1600年、関が原で戦い、見事勝利を収め江戸に幕府をひらいた。家康は行過ぎた合理主義、重商主義を反省し、農本主義に立ち戻った。また、中国から朱子学を輸入して、社会の安定を図った。江戸幕府は250年の平和と繁栄を日本にもたらした。
  • 徳川家康が祭られている日光の東照宮。当時の技術の粋を集めた寺院は、まさに壮麗・荘厳。世界遺産にも登録されています。
  • 日本では商業も栄えた。世界で最初の先物取引は大阪での米商売で行われた。そのほか、株、市場、銀行、なども江戸時代から行われており、『産業革命なしでの資本主義』に向かってたのではないだろうか。最も、帳簿のつけ方などは海外から学んだということで、日本が全てを発明したというわけではなさそう。やはり知識は共有しあってこそ、発展するというものだろう。
  • 浮世絵。特に葛飾北斎と写楽は天才。実は二人は同一人物ではないかという説がある。ゴッホなどのフランス印象派に影響を与えたという話は有名。

明治・大正・昭和 (1868〜現在)
世界情勢は欧米の拡張・植民地政策によって大きく変わっていた。日本も例外ではなく、この波に巻き込まれてゆく・・・
 

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